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2012/01/24

バリー・ベーム、リチャード・ターナー 「アジャイルと規律 ~ソフトウエア開発を成功させる2つの鍵のバランス~」

開発する際には最初にどういったアプローチで開発を行うか決めなければならず、そのときにアジャイル万歳な人がリーダーならばアジャイルに、そうではなければ計画駆動になっていたりしないか。

COCOMO (今はCOCOMO IIになっているらしい)で名前を知ったバリー・ベームがアジャイルという言葉がタイトルに入った本を書いているのが気になってこの本を注文した。

この本で著者が言っていることは以下に要約されている。
このプロセスを(もっと)適用するのと、適用しないでおくのと、私にとってどちらのリスクが高いだろうか。

大小さまざまな規模のソフトウェアプロジェクトに携わってきた経験から、この質問を投げかけ、その答えを正直に評価することが、妥当で実践的でかつ効果的な規律と俊敏性の組み合わせを可能にすると筆者たちは考えている。この点をなっとくしてもらい、それぞれの組織でバランスを達成するためのフレームワークや技法を提供できるよう、本書では最大限の努力を払っている。

このために、プロジェクトのリスクを分析してアジャイル的な手法と計画駆動的な手法のどちらがホームグラウンドであり、そこに他方の手法を適用するにはどうするか、を分析する、というところがポイント。

バランスが大切、というのは誰もが同意するだろうが、どうやったらそのバランスの良いところを見つけることができるのか。これに対しての方法を提示している。

やや話がそれるのだが、本書ではアメリカの実情として技術者がプロジェクトの途中で抜けることが多いことに対しては、「完成時ボーナス」を用意することで引き止める、というようにリスクに対して対策を打っていく例が出てくる。アジャイルな手法では暗黙知が重要なので人が抜けることがリスクであると認識しているから、こういった対策ができる。

日本で外部委託すると人を指定することができない。かといって個人技術者をコントラクターとして契約することも一般的ではない。とすると、そもそもアジャイル的な手法を適用するには今の日本の契約や雇用形態では無理があるのかも、と感じた。

2012/01/18

岩田 規久男 「デフレと超円高」

いわゆる構造デフレ論を次々と論破していく章はなかなか痛快。冷静に考えれば、OECDだけを見ても継続的なデフレなのは日本だけなのだから、「○○だからデフレ」の○○は、よく探せば他の国のどれかにもあてはまっているのだ。

たとえば、白川日銀総裁は、日本の生産性の低さが今の不況の原因だと断言するが、日本はOECD各国の中では生産性では中ぐらいだ。しかし、日本以外はデフレではないのである。
では、この円高の原因は何かというと、デフレによる実質的な高金利状態の日本と、緩和政策による低金利のアメリカの金利差の変化の方向による。これをデータをもとに論証している。

したがって、デフレを解消してインフレにしない限りこの円高による不況は解消できないことになる。このためには(法律の改正などを行い)インフレターゲットを採用するべき。

インフレターゲット政策を採用すると1000%というようなハイパーンフレになるのでは、という議論に対しては、ハイパーになるはるか手前でターゲット範囲からはずれるので緩和を止めればよく、対策が可能である、と明確に否定。
インフレターゲット政策を成功させるための最大のポイントは、金融政策に対する信頼性である。緩和すると言いながら政策を放棄したり方向転換すると、市場の信頼がなくなり、政策の効果も消えるという。この点では日本銀行は落第であり、この信頼を回復するためには日銀法の改正も含めた政策的な対応が必要だ、ということになる。

この20年ぐらいの日本の財政金融政策の失敗は、経済の成長を失っただけではなくロスジェネ世代以降の人生そのものをかなり破壊してしまった、と思う。その意味で、岩田教授の主張のような一貫した緩和政策が喫緊の政策課題だと思う。

インフレターゲット政策のポイントが信頼感である、というのは、技術的に数値を維持すればいい、というものではないだけに日頃の日銀や大臣たちの行動・言動も重要な要素となる、ということである。この政策を採用するとすれば日銀総裁や財務大臣などは今より厳しい仕事になるだろう。
たとえば、2012年1月時点の財務大臣は、民主党の国会対策で名を挙げた安住大臣である。このような人選では到底つとまらないのではないだろうか。日銀総裁の白川氏は日銀では緩和政策の収束のタイミングを誤ったという実績があるのでこちらも無理だということになるだろう。


(メモ:2012年1月16日、野田総理大臣は党大会で消費税増税に向けて党の結束をよびかけた、という。マニフェストはいったいなんだったのか、というか、マニフェストからはずれたと他人を批判しつつ政権を取ったんじゃなかったけ、この党は。)


2012/01/08

宮内泰介 「自分で調べる技術 市民のための調査入門」

「どうして私たちは、自分の社会を自分で作っていくという、単純なことができなくなってしまったのでしょうか。そんな疑問からこの本は始まります。」
この書き出しを読むと、政治家が役所が、、、という「体制に風穴を開ける」話かと身構えてしまうが、実用的な調査と発表についてのノウハウをまとめた本だった。

実地調査に慣れている著者は、文献、統計、役所の発表、インターネットなど、すでに何らかの形でまとめられているものの調べ方だけではなく、キーパーソンにあう、インタビューをするなど、フィールドワークについても経験を生かして方法論をまとめている。

最後には、市民による調査の連帯やノウハウの交換、団体による助成など、実のある調査をするために使えるものは何かまで言及している。

環境社会学が専門ということもあって、最初の方で、少し調べればというのがなかなかできないことの例として以下のようなくだりがある。
しかし、この本では、調査はそんなに難しくない、ということを主張します。少なくとも、「熱帯林を守るために紙の使用を減らそう」というのが間違いかどうかくらいは、簡単な調査でわかる、ということを示したいと思います。調べようという意思と、少しのノウハウがあれば、これくらいのことは簡単に調べられるのです。
これに限らず、章ごとに「練習問題」があり、これに沿って「少しやってみる」ことができるようになっている。

たとえば
【練習問題】
官庁統計から、以下のことを調べよ。

(1) 日本の1世帯当たり年間外食支出はどのくらいか?
定年が近づいてきたので(それまで会社があるかという問題もあるが)、その後の人生は少ない年金を使いながら社会に貢献したいと思っている。会社というしがらみがなくなったら何をしたいのか?地域の問題を細かく調査し提言したい、という妄想に近い野望もあってこの本を手に取った。

入門者の練習本としても役に立つ。

2012/01/01

森田雄三 「間の取れる人 間抜けな人 人づき合いが楽になる 」

コミュニケーションに「間」が大切だというのは著者に限らずよく聞く話である。
「間」は何もしないことではなく、ひらめきのための気づまりな沈黙だったり、あきらめとあきらめが重なった空間だったりする。著者が言うには、逆上がりのようにある日わかるようになる、ものなのだ。
コミュニケーションが「知り合いたいためにできるかぎり本当の自分を伝えること」になってしまったらずいぶん窮屈で居心地の悪い空間ができあがる。そうではなく、普通のコミュニケーションはつまらない話を聞き流す気楽さだったりする。


本の前半では「4日間でイッセー尾形と舞台に立てるワークショップ」での経験からコミュニケーションとは何なのかをさぐっている。

たとえば:
話を聞いている側は、話そのものよりは「話し手の状態」からより多くを受け取っている。
「困っている人」を見ていると目をそらすことがあるがその前に「やさしい気持ちになる」がある。ここでこちらから話しかけず見守ることがコミュニケーションのコツ。
「困る」側は、「困っている自分」を受け入れ、相手のやさしいまなざしをうけいれたときコミュニケーションが生まれる。
役者はこの「困る」訓練を積むのだが、著者が4日間で行うワークショップでは舞台の上で困ってしまえばいいという発想で行われる。
これは、「あきらめる」ことでもあるのだが「あきらめることでコミュニケーションが始まる」
本の後半は、自分の「心」というものをモノとして提示して描写するような自己呈示をなぜ日本人がするようになったかを、常に最高の恋愛を探して一人の人にすごいと思われたい風潮と関係づけて考えている。それは社会全体が「恋愛がすばらしい」という風潮からくると著者はいう。

結局、「心」とか「自分の考え」も実は周りの影響を受けた「借り物」にしか過ぎない。そう思えば、自分は空っぽなんだと思える。「自己主張をしなければ、しゃべらなければ」という時代の要請から自由になること。「間」に腰を据える訓練をするほうが会話がうまくなるし、人を引き付ける近道になる。

著者の開催する4日間でイッセー尾形と舞台に上がるというワークショップ、これは一種の人工の土壇場での「沈黙」や「ひらめき」を鍛えることでコミュニケーション力を引き出す(思い出させると著者は表現)場ともなっている。

イッセー尾形の一人芝居は、社会から強制されている思い込みを抽出して提示し、観客の想像力に任せる。演出家である著者が社会や人のコミュニケーションを観察した結果としてできている演出方法なのだ。

この本のもっとも面白いところはイッセー尾形による「あとがき」。自分の年のせいもあるかもしれないが、なんだかしんみりと読んでしまった。
この本を読むことは、僕が彼から何をもらってきたのかに気づかせてくれる大切な機会となった。